2022年大河『鎌倉殿の13人』重臣13人衆はこの人たち!大河ドラマが10倍おもしろくなる鎌倉時代の真実!

2022年の大河ドラマが発表されました。三谷幸喜氏脚本による『鎌倉殿の13人』です。タイトルからしても登場人物も多く、なんだかワクワクしてきますね。大河ドラマの脚本を手掛けるのが今回で3回目となる三谷氏は、「史実には忠実に、残されていない部分は想像力で埋めていく。もちろん僕が書くので笑いもある。でも決してそれがメインではない。」(引用:朝日新聞 2021,12,25 『三谷幸喜のありふれた生活』より一部抜粋)と、今回も三谷ワールド全開の大河が期待できそうです。

ところで、『鎌倉殿の13人』の13人って誰なのか、ご存じですか。私は知りませんでした!ただ、人物が多く出てくると、それぞれのキャラクターや人間関係が複雑に絡み合って物語が展開していくイメージがあります。最初は味方だったのに裏切りがあったり、陰謀やたくらみがあったり…。

ということで、この13人は誰でどういった人物なのか、そもそも何のための13人なのか、物語にどう影響していくのか、調べてみました!

将軍の補佐が目的の御家人13人だったが…

「御恩と奉公」武士による新しい政治

時は鎌倉。鎌倉幕府の創業者である源頼朝は、1185年壇ノ浦の戦いで平氏群を滅ぼし、「武士の、武士による、武士のための政治」を確立した人物です。それまでは、武士への恩賞も領地の支配や管理も朝廷に権限がありました。源頼朝は、朝廷から距離を置き、個別に所領の保全・没収を行う権力を持つ武家政権を確立させ、まったく新しい政治体制を築き上げました。

つまり、頼朝自身と、武士との一対一の主従関係を築き上げたわけです。リーダーである頼朝は「御恩」として武士たちの土地を保障し、武士たちは「奉公」として軍事に就き忠誠を誓う関係です。この関係で結ばれた武士たちは「御家人」と言われました。

コラム1192?1185?鎌倉幕府の成立はいつ?
従来1192年(イイクニ)成立とされてきた理由として、源頼朝が問題は征夷大将軍に任命されたことがあげられる。しかしこの時点で頼朝による幕府の仕組みはある程度できていたとされるので、現在は、「守護・地頭」が設置された1185年(イイハコ)を鎌倉幕府の成立としている。鎌倉幕府の成立年に諸説あるのは、ある一つの出来事によって一気に成立したのではなく、頼朝が段階的に朝廷から権利を勝ち取っていったという過程があるからとされている。

頼朝死後の御家人同士の熾烈な権力争い

問題は頼朝の死後です。頼朝が1199年1月に急死したため頼朝の嫡男・源頼家が二代将軍に就任しました。しかし就任から約三か月後には、13人の有力な御家人による合議制で政務運営を行うこととされました。そもそもの御家人の役割である将軍の補佐というよりは、頼家を実質的に政権から遠ざける意図があったようです。

頼家は政治力がなかった?

ではなぜ、頼家は将軍なのに訴訟や政治の決裁権や決定権を与えられなくなったのでしょう?それは、頼家は『暗君』ともいわれるほど独裁的な政治を行い、御家人からの信頼を失っていったと言われているからです。

当時の訴訟の内容は、ほとんどが武士の土地問題でした。その争いの決着に、以前の頼朝であれば双方の話をよく聞いて、ちょうどよい落としどころを見つけ解決していたようですが、一方の頼家は、「土地の広狭は、その身の運不運によるべし。」(引用:『日本中世史最大の謎!鎌倉13人衆の真実』本郷 和人 P74)として、かなりおざなりだったようです。とはいえ、頼家が将軍に就いたのは、当時18歳です。今と当時の年齢のとらえ方は違うと思いますが、やはりまだまだ未熟な青年ですよね。偉大な父と同じようには采配を振るえなかったとしても仕方ないことだと思うのですが…。それは鎌倉幕府の将軍という立場には関係ないことだったのでしょうね。

有力御家人13人

北条 時政(1138~1215 1月6日)

北条政子、義時の父。元は伊豆の豪族。伊豆に流されてきた頼朝の監視役として頼朝と出会い以後、鎌倉幕府の成立に尽力する。頼朝の死後、鎌倉幕府最高権力である初代執権となる。

北条 義時(1163~1224 6月13日)

北条時政の次男。最年少で13人の合議制に参加。父時政は比企氏や畠山氏を滅ぼし初代執権の地位に就いたが、義時が後継となるとは限らなかったため、知略と謀略で時政を幽閉、執権の座を勝ち取る。

大江 広元(1148~1225 6月10日)

元は朝廷の官人を務め、頼朝の家臣となる。鎌倉幕府の仕組みの一つである、一般的な政治や財政を担当する政所(まんどころ)のNo.1。守護・地頭の設置は大江広元が頼朝に提案したとされる。

中原 親能(1143~1208 12月18日)

大江広元の義理の兄。下級官人だった中原広季の養子であり、朝廷に仕える親族であったが、当時は身分が低かったため後継として朝廷に仕えることは出来ず、京に見切りをつけて鎌倉に下ったとされる。文官としての才があり、頼朝と朝廷との橋渡し役としても活躍。

三善 康信(1140~1221 8月9日)

京の下級官人、三善家に生まれ、母の妹が頼朝の乳母であったことから頼朝との信頼も深い。裁判や訴訟を担当する問注所のNo.1。頼朝に今日の情勢を伝える役目や、京での人脈や実務経験を生かして活躍した。

三浦 義澄(1127~1200 1月23日)

相模国(今の神奈川県)を中心に大きな武士集団だった三浦一族は、古くから源氏に仕え、義澄は古参の有力御家人であった。息子の三浦義村は承久の乱(1221)では北条側に就いたが、三浦一族自体は宝治合戦(1247)によって北条氏に滅ぼされる。

安達 盛長(1135~1200 4月26日)

平治の乱(1159)に敗れた源頼朝が伊豆に流されたとき唯一付き添った側近中の側近。恩賞として鎌倉の甘縄に屋敷地を与えられる。上野国奉公人として国内の収税事務を任された。

八田 知家(1142~1218 3月3日)

1193年曾我兄弟の仇討に呼応した大掾(だいじょう)氏を討伐し、以後、大掾氏の領地であった常陸国の守護を務めた。

足立 遠元(生没年不詳)

武蔵国足立郡に領地を構える武士一族で、平治の乱では源氏に加勢した。読み書きができない武士が多かった当時、遠元は文武両道に優れ、その才を買われた。1184年公文所(政所の前身)の設置により文官として活躍。

二階堂 行政(生没年不詳)

源頼朝との遠い親戚であり、鎌倉に下った。鎌倉二階堂に居を構えたため二階堂を名乗る。公文所の寄人や政所の別当となる。大江広元が不在の時は、代役を務め、幕府の実務を担う文官として手腕を発揮。

比企 能員(不詳~1203 9月2日)

源頼朝の乳母(母親の代わりに育てる人)が比企尼で、能員のおばにあたる。また、妻や義妹も源頼家の乳母だったり、娘の若狭局は頼家の妻になるなど、頼家の親戚として君臨していたことで、頼家が二代将軍に就いた後、北条時政の謀略により滅ぼされる。

梶原 景時(1140~1200 1月20日)

石橋山の戦い(1180)では平氏軍についていたが、頼朝が洞窟に隠れているのを見つけたが、わざと見逃したと言われている。以後、平氏討伐の際には源義経に就くなど源氏に従い、頼朝からの信頼も厚かった。幕府では侍所の別当となり文武両道を兼ねる武士であった。しかし、北条時政の陰謀により、66人の御家人による弾劾状により、鎌倉を追放され、一族は滅びてしまう。

和田 義盛(1147~1213 5月3日)

三浦一族の出だが、本家を継がずに相模国三浦郡和田に本拠地を構え、和田を名乗る。三浦義澄は叔父。1180年侍所の設置とともに初代別当となる。13人の合議制発足後の北条時政の策略に乗っていたが、時政の死後、義時と対立し、和田合戦(1213)により、和田一族は滅亡する。

北条 義時―実の父を討つ息子は悪人か

鎌倉殿に仕えたとされる13人はいかがでしたか。それぞれ身分や出自が違い、得意分野も違いますが、陰謀や策略、裏切りなど結構泥沼な人間関係だったようです。こうしてみると、のんきな考えですが、当時はいとも簡単に人が人を殺してしまう時代だったんだなと恐ろしくなりますね。

そして、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主役でもある北条義時も、実は冷酷無残なことをしています。それは、実の父、北条時政を、姉の北条政子(源頼朝の妻)と企てて、権力のために殺してしまうのです。

自分の子どもたちに殺されてしまうなんて、ショッキングですが当時はよくあることだったんですね。

そもそも、父親である北条時政は、伊豆のとても小さな規模の武士一族だったため、御家人として源頼朝に仕えていても、自分が権力者になれるかは全く保証がなかっただけに、時政はあの手この手を使って、周りの御家人たちや将軍ををけり落していきます。

そんな中で、息子・義時と対立し、結果時政は鎌倉を追放されその後二度と表に出ることなく病死しました。これにより、義時は実質、鎌倉幕府の最高権力者の地位を手に入れました。

まとめ

とにかくたくさんの人物が登場し、たくさんの思惑があり複雑に絡み合ってみえる鎌倉時代。三谷幸喜さんがどのような『鎌倉殿の13人』を世に放ってくれるのか、楽しみですね!